小さなお子さまの問題

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子どもの「症状」は、助けを求めるサイン

小さな子どもは、抵抗力や適応力が乏しい分、無理がかかるとすぐに「症状」となって表れます。

症状は、ときには、周囲を困らせる行動という形をとることも少なくありません。

また、そんなことをして、と叱りつけるだけでは、せっかくの回復のチャンスを潰してしまいます。それは、助けを求めるSOS、サインでもあるからです。

子どもはめまぐるしく成長を続けています。

発達の課題が見えてくることも多いのですが、成長途上にある分、それを取り戻すチャンスも大きいのです。

遅れていたはずの子が、平均を追い越してしまうということも起きます。

発達の課題をあまりネガティブに考えすぎたり、もう決まったものと思わないことも大事です。

子どもの脳は大きな可塑性と限りない可能性を持っているのです。それを大切に伸ばしていきましょう。

思春期に差し掛かるころには、また別の難しさが浮上してきます。

それは、子どもが自立へ向かおうとすることから生じるものです。

子どもは自分の主体的な人生を模索しはじめているのです。

そこで、小さいときと同じように、支配し過ぎてしまうと、子どもの主体性を歪めてしまい、子どもはアイデンティティを確立し、自立を成し遂げるという課題をうまくこなせなくなってしまいます。

幼児期にはしっかりかかわり、小学校に上がった頃から、徐々に自立を意識した関わりにチェインジし、思春期に入った頃には、主体的に行動できるように準備をしていきましょう。

岡田尊司『子どもの心の病を知る』より 

二つの歴史が出会って

すべての命は、二つの歴史の出会いから始まる。

母となる女性が誕生したとき、すでにその体内には、一生の間に排卵される卵子が宿されている。

彼女が成長し、大人になって、愛する人に出会う日を、ひそかに待ち続けるのである。

長い時がたって、父となる男性と結ばれたとき、彼女の体に放たれた数億もの精子は、卵子を目指していっせいに遡行を始める。

毎分二、三ミリという速度で、長い旅をした末に卵子と出会うのは、卵管膨大部と呼ばれる、卵管が広がった大広間である。

そこまでたどり着ける精子の数は、三百から五百。そのうち卵子と受精できるのは、ただ一つだけである。

受精は、二つのものから一つのものが生まれる、小さな奇跡のドラマである。

精子を待ち受ける卵子は、太陽のコロナのように表面を取り囲む放線冠に保護されながら、ゆっくり回転している。

精子は果敢に卵子にとりつくと、先端から放出する酵素によって放線冠を溶かしていく。

一個の精子が力尽きると、別の精子が次々と後に続く。

放線冠の内側には、さらに透明体と呼ばれる膜が卵子を覆っている。

幸運な精子がそれを貫通し、卵子にたどり着いた瞬間、膜は固く閉ざされ、他の精子はもう中に入ることを許されない。

そして、閉ざされた膜の内側で出会った一対の精子と卵子は、一つの命に融合する。新たな命の誕生である。

生物学的にみれば、それは父と母の遺伝子が半分ずつ、一つの命に授けられる営みである。

だが、人の命においては、それだけに留まらない。

そこで一つに結び合うのは、遺伝的情報だけではない。二つの命の歴史が、その瞬間一つに結び合うのである。

望むと望まざるとにかかわらず、誕生した命は、その二つの歴史を背負うことになる。

 同時に、新しい命は新しい自分の歴史を生み出していく。

一日一日自分自身の命の時を刻んでいくのである。

ただ、新しい命自身は、自らの歴史が生きる時間とともに始まったことさえ知らずに、母親の胎内で目覚めの時を待ちながら眠っている。

十ヶ月後、小さな産声とともに、この世に生まれ出る日を待ちながら。

命、この尊きもの

あなた自身もまた、二人の親の出会いから命を授けられた。

多くの方は祝福され、両親の愛情に包まれながら、この世に生み出されてきたことだろう。

だが、万が一、あなたが望まれもせずに、厄介者のようにこの世に生を受けたとしても、あなたもまた、一つの小さな奇跡から誕生したのである。

それは、もう二度と起こらない、たった一度だけの出来事なのである。

 それから、あなたはさまざまな体験をしながら、ここまでの道のりを歩んできた。

喜びや悲しみ、怒りや不安、さまざまなことを乗り越えて、とにかく今日まで生きてきたのである。

その過程においては、あなたが背負うことになった二つの歴史が、良きにつけ悪しきにつけ、あなたの人生に影響を及ぼしてきたことだろう。

親に大切にされ親を愛している人も、親に愛されたいのに素直にそう言えずにきた人も、親にそっぽをむいて、必死に強がって生きてきた人も、あなたはあなた自身の人生だけでなく、多くの人の人生に巻き込まれ、振れ回されながら、長い旅路を歩んできたのである。

その中で、あなたは、知らず知らずのうちに、あなたの生きる術というものを身につけてきた。

それは、あなたの今の生き方、子育てや夫婦関係、恋愛や人付き合い、仕事にも反映されている。

あなたを守るためのものであったかもしれないが、あなたの人生を損なっている場合もある。それを知っておくことは、さまざまなトラブルを防ぐことにもつながる。

これから、生まれ出た命が育つプロセスをたどりながら、そこで陥りやすいさまざまなトラブルや障害について、みていきたい。

それは、あなたの子どもや身近な人がたどっている道程であると同時に、あなた自身がたどってきた道のりでもあるのだ。

子供の発達と愛情の大切さ

狼少女の悲劇

一九二〇年、インドの西ベンガル州の村に奇妙な噂が流れた。狼と一緒に四つ足で駆け、家畜を襲う奇妙な姿の生き物を見かけたというのだ。

それは、人間の子供に似ていた。

噂を聞いて、真偽を確かめようと、森を訪れたシング牧師は、狼と共に洞穴から出てきた謎の生き物をその目で見る。

それは、紛れもなく人間の子供で、しかも女の子だった。

狼を倒し、少女を保護しようとしたシング牧師らに、少女は、狼さながらに四つ足で立ち、歯を剥き出してうなり声をあげた。

だが、やがて、少女は抵抗する気力も体力も失って、大人しくなった。

牧師らが狼の巣穴を探ってみると、そこにはもっと幼い少女がいた。保護された二人の少女はカマラとアマラと名付けられ、牧師夫妻の営む孤児院で育てられることになる。

まだ一歳であったアマラは、翌年病気で亡くなってしまったが、カマラはその後九年間生き、世に「インドの狼少女」として知られる驚嘆すべき記録を残したのである。

それは、子供の養育と発達を考える上での貴重なケースとなった。

当初、カマラは四つ足で歩行し、生肉にむしゃぶりついた。

聴覚や嗅覚が異常に鋭く、明るい場所よりも暗がりを好んだ。

言葉は無論、激しい怒りや空腹以外に、感情らしい感情や知的な興味も示さず、さながら野生動物のようであった。

しかし、根気強い牧師夫妻らの世話によって、カマラは次第に安心を覚えるとともに、牧師らになつき、三年後には二本足で立つようになり、四年後には、逆に暗闇を怖がるようになった。

七年後には生肉を食べることも止め、片言の言葉もしゃべれるようになったのである。

しかし、それは、同じ年齢の子供と比べるまでもなく、挽回不能の発達の問題を残したのである。

狼少女の悲劇が示すように、人は、必要な時期に適切な養育と教育を与えられないと、本来の発達を遂げることができなくなってしまう。

それは、後で取り返すには、大変な努力を要することになるのである。

ソフトマザーとハードマザー

アメリカの心理学者ハーロウは、仔ザルを使って、母性が子どもの成長に果たす役割を研究した。

生後間もないマカクザルの仔ザルは、母ザルから離されると、育たずに大部分死んでしまう。

だが、針金に布を巻いて哺乳びんを取り付けた母ザルの人形を置いておくと、仔ザルはそれに抱きついて乳を吸い、育つことができる。

ハーロウは、哺乳びんは付いていないが、やわらかな布で覆われたソフトマザーと、哺乳びん付きだが針金がむき出しのハードマザーのどちらと、仔ザルが長い時間を過ごすかを調べた。

すると、意外にも、仔ザルたちはソフトマザーの方で長く過ごしたのである。お乳を吸う以外に、仔ザルは抱きつき、支えられる対象を必要としたのである。

しかし、人形の母ザルによって生き延びることができた仔ザルも、社会的な行動がうまく行えず、妊娠出産しても育児に無関心であったり虐待したしたりした。

アカゲザルを使った研究でも、生まれてまもなく母親から引き離された仔ザルは、不安行動が強く、新しい体験や仲間に対して臆病であり、過度に攻撃的で、孤立すると自傷行為や常同行動を繰り返した。

ハーロウの行った仔ザルの観察は、人間の養育にもすっかり当てはまるのである。

母親の愛情と養育は、子どもの基本的な安心感や社会性の土台となる力を養う上で決定的な役割を果たすのである。

母性的献身と愛着の発達

イギリスの児童精神科医ウィニコットは、非行や精神的、性格的な問題を抱えた人には、深刻な愛情剥奪体験(愛着の対象であり愛情や世話をしてくれる存在を奪われる体験)が多いことを臨床経験の中で知り、子どもの健全な自我の基盤の形成に、母親の全身全霊をこめた愛情が非常に大切であることを説いた。

彼は、子どもの成長に抱っこ(ホールディング)が果たす役割の重要性に注目し、「抱っこ」が「共に生きる」原点であり、他者との関係を築く出発点であることを強調した。

重篤な性格障害の人などでは、幼い頃、しっかりと守られ、支えられる「抱っこ」の環境が損なわれていたことを、多くのケースの治療の中で明らかにした。

愛情剥奪や見捨てられ体験の影響は、その子が大きくなってから起きる場合でさえ心に浅からぬ傷を残すが、母親をもっとも必要としている早い時期に、母性的な愛情を奪われることは生涯にわたって深刻な影響を残す。

そうした体験は、比較的短期間のものであっても、免疫系や内分泌系、脳や身体の成長にも支障をきたす。

成長ホルモンの分泌が低下して成長が止まったり、免疫力が低下して病気がちになったり、脳の発達も遅れを生じやすくなるのである。

実際、深刻な愛情剥奪を経験した子どもたちは、小柄で、体も弱いことが多い。

発達の遅れも見られ、知的発達の遅れもよく見られる。

四、五歳になっても、オムツもとれず、這っていることもある。

幼い子どもにとって、母親は、まさに育つ力の源なのである。

母親が亡くなるとか、離別するといったことがなくても、愛情剥奪や見捨てられ体験は起こる。

ありがちなのは、母親自身が自分の問題で手一杯になり、子どもに関心が向けられなくなった場合である。

兄弟に病気や障害があって、母親の愛情や関心がそちらに独占されてしまうことも同じ結果を生む。

そのときは聞き分けもよく、我慢しているので、親はこの子は心配ないと思って、本人の寂しさに気づかないことも少なくない。

小さい頃一番しっかりしていた者が、甘えそびれて、後で問題を起こすというケースは、後の章でみるように非常に多いのである。

脳という奇跡

神経系の発達は、体の発育などとは少し違う経過をたどる。

図のようにお腹の中にいる頃から急速に発達し、四歳頃までに構造としてはおおよそ出来上がるのである。

ただし、それは配線のつながっていないICチップだけのようなもので、その後の学習によって、ネットワークが完成していくのである。

それには、十五歳から十八歳頃までかかる。

生後数ヶ月まで、脳ではシナプス(神経と神経のつなぎ目)が過剰に形成されるが、そのうちの使われるものだけが生き残り、使われないものは失われていく。

「刈り込み」という現象である。

青年期の終わりに脳が完成してしまうまでに、どのシナプスが生き残るかは、その子の成長過程での体験と学習にかかっている。

つまり、体験と学習が脳を作っていくのである。

子どもは大きな可塑性(変化する力)を持つが、それは、まだ配線が出来上がっていないため、いかようにでも回路をつなぎ直すことが可能なことによる。

ことに四、五歳ころまでの脳の可塑性、吸収力は極めて大きく、その時期に身につけたものが生涯を支配するといっても過言ではない。

この極めて吸収力の高い時期を「臨界期」と呼ぶ。

言語について言えば、母国語として身につけるためには、臨界期に触れる必要があると言われる。

ただし、臨界期を過ぎても、ネットワークの完成する十八歳までの時期は、脳が柔軟で、学習能力が旺盛である。

子どもの旺盛な吸収力の源は、高い模倣能力にある。

小さい子どもは、どんなことであれ、すぐに真似してしまうのである。

脳にとって善と悪の区別はない。

与えられるものを与えられるままに吸収してしまう。

しかも、それは単に行動の模倣に留まらない。

脳のネットワーク自体に組み込まれていくのである。

子どもにとって、環境がいかに大切かは、脳のそうした特性を考えれば一層痛感されるだろう。(後略)

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この記事を書いた人

香川県出身。東京大学哲学科中退。京都大学医学部卒業。2013年岡田クリニック開院。山形大学客員教授として、研究者や教員の社会的スキルの向上やメンタルヘルスにも取り組む。

著書に、『アスペルガー症候群』『ストレスと適応障害』『境界性パーソナリティ障害』(幻冬舎新書)『パーソナリティ障害』『働く人のための精神医学』(PHP研究所)『愛着障害』(光文社新書)『母という病』(ポプラ社)など多数。

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