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恋愛に迷う現代人
恋愛に悩みはつきものであるが、ことに最近は、出会い方も多様化し、選択肢やチャンスも広がっている分、恋愛の悩みや危険も増していると言えるだろう。
人付き合いが希薄化していることもあり、どんなふうに恋愛をすればいいのかわからないという人も少なくない。
相手に気持ちを伝えたいのだが、どう事を運べばいいのか、恋愛の仕方がわからなくて困っているケースもある。
適当に付き合っている人はいるが、本当にこの人でいいのか、迷って決められないというケースも多い。
一緒にいると楽しいが、ちょっと気になる点があり、それをどう判断していいのかわからない。
相手の態度が腑に落ちず、それをどう理解していいのか悩んでいるという場合もある。
今のパートナーと別れるべきかどうか迷っている人も大勢いる。
本当に、この人とうまくやっていけるのか、自分にピッタリな人なのか、確信がもてない。
もっと人生経験を積んだ人でさえ、こうした悩みを抱えているケースは意外に多い。
苦労が本当に報われるのか、それとも、結局、徒労に終わるだけで、早く決着をつけた方がいいのか、それが見極められずに揺れているという状況にもよく出会う。
ところが、ひとたび恋愛関係になってしまうと、相手の良いところしか見えず、自分が陥ろうとしている落とし穴に気づかないか、薄々気づいていても見て見ぬふりをしてしまうこともある。
未練や遠慮で、ずるずると決断を先延ばしして、大切な時間を無駄にしてしまうこともある。
二人の前途に、どんな将来が待ち受けているのか、五年後、十年後、二十年後に、自分たちの恋愛が、どういう結末を迎えているかを、ある程度、見通すことができれば、もっと冷静に判断できるに違いない。
だが、今のところ、精々、占いに頼るか、友だちや先輩の、かなり無責任で主観的なアドバイスを聞くしかない。
もう少し客観的な指針となるものはないのだろうか。
そんな思いを、誰しも感じたことはないだろうか。
恋愛は飛行機を操縦するのと同じ
恋愛が難しさを増す一方で、近年、恋愛を真面目に考える人が増えている。
中には、遊びと割り切っている人もいるだろうが、戯れのはずの恋が本気になるのも、また恋愛である。
口先でどう言うにしろ、多くの人は、人生の伴侶となる存在に出会うことを、心のどこかで期待しながら、自分にふさわしい人との出会いを模索している。
実際、伴侶選びは、一生を左右する重大事なのである。
私は長年にわたって、パーソナリティや心の問題に携わってきた。
さまざまな精神的な悩みやトラブルを抱えた人が、精神的に行き詰まり、逆に、そこから回復していく過程にも立ち会ってきた。
そうした中で、とみに感じるようになったことは、人生とは、その人自身の力だけで決まるものではないということである。
どういう人に出会うかによって、人生は、大きく左右される。
素晴らしい可能性が開かれることもあれば、地獄の入口へと誘い込まれることもある。
とりわけ愛する人との出会いは、人生をバラ色にも灰色にも変える。
自分にふさわしいパートナーと結ばれた人は、最初のうち苦労があったにしろ、次第にそれが報われ、充実した人生を歩むことができる。
しかし、ふさわしくないパートナーに出会ってしまうと、人生を棒に振ってしまうほどの損失を蒙ることにもなりかねない。
人生において、それほど大切な伴侶探しであるにもかかわらず、それに対する方法論というのは、まったく偶然任せに近い。
ましてや、恋愛のプロセスやふさわしいパートナーの選択について、きちんと学ぶ機会というのはほとんどない。
光合成や鎌倉幕府、三平方の定理といったこと以上に、われわれの人生にかかわることなのに、教えてもらえるのは、精々性教育くらいである。
車の運転をしたり、ましてや飛行機の操縦をするのなら、それについて専門知識を身につけ、十分なトレーニングを積むのは当然のことだろう。
恋愛し、伴侶を選び、幸福な愛情を育んでいくことは、ある意味、車を運転するよりもずっと難しく、飛行機を操縦するくらいの技量を要することである。
一つ間違えれば、墜落して、命を失ってしまうことだってあるのだ。
安全にそれを行うためには、不測の事態も計算に入れながら、危険を避け、乗りこなす知識と技術が必要なのである。
もう少し恋愛というものについて、体系的に、客観的な判断の基準となるようなものがないものだろうか。
それは、一般教養や衛生知識に劣らず、自分を守り、人生の価値や質を高める上で、非常に大切なことに思えるのである。
恋愛を科学的に扱う方法
人生を大きく左右する恋愛という営みにおいて、もう少し科学的な論拠に基づいた、見通しをもつことはできないだろうか。
もう少し信頼できる見地から、客観的な指針やアドバイスを提供できないものだろうか。
そうした期待に対して、今日の精神科学、心理学が提供できる、もっとも優れた有用性と高いポテンシャルを備えた方法の一つと考えられるのが、パーソナリティ理論に基づく行動心理分析や対人関係分析であり、パーソナリティ分析と呼ぶ手法である。
本書は、パーソナリティ分析によって、恋愛のプロセスや未来をある程度予測し、その対処を助けようとすることを目的としている。
実際、パーソナリティのタイプによって、恋愛の仕方やパートナーの選び方には、ある傾向があるだけでなく、二人がどういうパーソナリティ・タイプの組み合わせであるかによって、恋愛がどういう道行きをたどりやすいかが、かなり高い確度で、しかも比較的容易に予測できるのである。
そこには、一定の法則性があり、それを知っていると、恋愛の結末を、おおよそ見通せるだけでなく、どうすれば、幸福な恋愛に育んでいけるか、生じやすい危険は何なのかについても予め知り、対処しやすくなるのである。
恋愛がうまくいくのもいかないのも、恋愛が本物の愛情に育つかどうかも、互いのパーソナリティの組み合わせに起因する部分が大きいのである。
いわゆる相性と考えられているものは、二つのパーソナリティの組み合わせによって、ほぼ決定される。
一人のパーソナリティだけでなく、そこに、もう一人のパーソナリティが絡み合うことによって、問題はより複雑になるが、二つのパーソナリティが生み出すダイナミクス(動力学)を知ることにより、その恋愛がたどる道筋も、陥りやすい危険な落とし穴も、それが幸福なものとなるために必要な条件も見えてくるのである。
本書は、真面目に恋愛を考えている人のために、精神医学や臨床心理学が長年培ってきた経験知を結集したものでもある。
本書では、パーソナリティ分析の方法に基づきながら、ケーススタディや伝記的な研究により今日まで蓄積してきたものから、多くの具体例を盛り込み、個々のパーソナリティ・タイプやそれぞれの組み合わせに合った恋愛の客観的指針を明らかにしていきたい。
本書を読み終わる頃には、あなたの恋愛観は大きく変わっているはずだ。
どんなふうに恋愛をすればいいのかわからなかった人も、この人でいいのか迷っている人も、今のパートナーと別れるべきかどうか悩んでいる人も、そこに一つの答えが見えてくるはずだ。
それを、どう活かすかは、あなた次第である。
ただ言えることは、あなたの期待や思惑に関係なく、一つの客観的な基準が与えられるという点で、心強い味方になってくれるということである。
本書で提示するパーソナリティ分析は、あなた自身のパーソナリティや相手の人のパーソナリティについて、気づきを与えるだけでなく、両者の組み合わせがどんな結果をもたらしやすいか、また、それに対して、どんな手だてを取り得るのかについても、重要な気づきを与えるだろう。
ただ、あくまで、本書は、恋愛という観点に絞って書かれたものである。
各パーソナリティ・タイプについて、もっと詳しく知りたい人やパーソナリティの偏りによって起きる問題について、もっと学びたい人は、拙著『パーソナリティ障害』などを参考にしていただきたい。
執筆に当たっては、女性の視点も入れて描いていくために、恋愛・結婚カウンセラーの方にも一部協力していただいた。
限られたページ数の中で、伝えたいエッセンスをできるだけ理解して貰えるように、構成に工夫を凝らした。
全体像がわかるためにも、自分に関係があるところだけでなく、本書全体を、読み通されることをお勧めする。
それによって、あなたは、個人的な枠を超えた恋愛のメカニズムについて、より大きな視点を得られるはずである。
恋愛はハイリスク・ハイリターンな賭けである
伴侶を選ぶことは、自分の人生すべてを投資するようなものである。
「悪妻は六十年の不作」とも「悪夫は、百年の飢饉」とも言われる。
不幸な恋愛は、生涯の不幸をもたらしかねないばかりか、子や孫の代にまで影響を及ぼしかねない。
もしあなたが全財産を投資するとしたら、投資先を慎重に選ぶに違いない。
利回りや安全性、将来性を、よく調べ抜いた上で、投資先を決めることだろう。
伴侶選びは、全財産どころか、あなた自身やあなたの将来までも、すべてを投資する相手を選ぶようなものである。
当然、よく研究して、慎重に判断しなければならないのだが、実際には、一瞬の感情で相手を選んだり、成り行きに任せてしまったりすることも少なくない。
逆に、慎重になりすぎて、本当は、理想的な相手に巡り会っているのに、やり過ごしてしまうという場合もある。
選ぼうにも、何の客観的な判断基準もないため、選べば選ぶほど、誰がいいのかわからなくなってしまうといったことも起きてくる。
だが、素晴らしい伴侶にめぐり会うことは、それまでの暗かった人生を、がらりと変えてしまうほどの幸福をもたらす。
世界的に有名な心理学者のエリクソンとその妻となった女性ジョアンナ・サーソンの例をお話ししよう。
エリクソンは、アイデンティティ(自己同一性)の概念を打ち立てた人物で、二十世紀の知の巨人の一人に数え上げられる存在である。
しかし、エリクソンは、大学教育さえ受けていない。
青年期までのエリクソンは、家庭でも学校でも、ずっと問題児扱いされていた。
義理の父親とうまくいかなかったこともあって、家に居場所がないと感じていた。
画家を志したものの、絵の才能にも限界を感じ、各地を放浪する生活をしていた。
一方、カナダ出身のジョアンナもまた、家庭では問題児だった。
実の母親とうまくいかず、顔を合わせるとケンカが始まるという具合だった。
ジョアンナもまた、家を離れ、遠くウィーンに演劇の勉強にやってきていた。
エリクソンが教師として働いていたフリースクールのような学校に、ジョアンナが仕事を求めて訪れたのである。
自分の家にも故国にも居場所のなかった二人は、こうして出会い、恋に落ち、やがて結婚する。
今で言う、できちゃった婚だった。
「問題児」同士が、一緒になって、まともな家庭など築けるわけがないと思うかもしれないが、二人は、理想的とも言える幸せな家庭を営んだのである。
そればかりか、学歴も後ろ盾もないエリクソンが、ジョアンナの支えによって、世界的な成功を収めていくのである。
二人のケースは、自分にふさわしいパートナーと居場所を見つけることが、その人の幸福と能力発揮にとって、どれほど大事であるかを物語っている。
関わる相手によって、ダメ人間やふしだらな女とされていた同じ人物が、素晴らしい夫や妻、尊敬され愛される人物にもなるのである。
もちろん、その逆もある。
どちらも、たくさんの長所をもち、青年期まで輝いていた二人が、晴れて一緒になったというのに、どちらも別人のように輝きを失い、魅力のない存在になり、ついには、精神を病んだり、家庭が破綻したりという不幸な結果に終わることもある。
恋愛、そして伴侶選びは、ハイリスク・ハイリターンな賭だとも言えるのである。
恋愛状態の脳は、狂気と紙一重
しかも、恋愛をさらに危ういものにするのは、恋愛の持つ非理性的な、狂気に近いパワーである。
恋をすると、人の脳は高揚状態になる。
その正体は、脳内に放出されたドーパミンと呼ばれる神経伝達物質やエンドルフィンのような脳内麻薬、ステロイドホルモンや神経ペプチドの放出増加である。
覚醒剤の注射やコカインの吸引によって脳に放出され、脳内の濃度が増加するのもドーパミンである。
ドーパミンは覚醒作用を持ち、脳を活性化させる。
そのため、恋をし始めると、普段より早く目が醒めるようになる。
睡眠時間が短くなり、活動的によく動き回り、よく喋り続けるが、あまり疲れを感じない。
普段は無粋な人物も、詩心が芽生えて、ロマンチックな言葉を書き連ねたりする。
恋が始まったときの、甘美で天にも昇るような気分は、脳内に増え始めたドーパミンや脳内麻薬がもたらす陶酔と高揚状態による。
しかし、その状態が長く続くにつれて、人の脳はくたびれてくる。
次第に疲れが溜まってくるのだ。
冴えすぎた神経は、次第にイライラしやすくなったり、訳もなく悲しくなったり、楽しいはずなのに、暗い気持ちになったりということが起こり始める。
その状態は、覚醒剤やコカインといった薬物を使用したときと似ている。
最初は、これまで味わったことのないような心地よさに満たされるが、使い続けるうちに、最初ほどの幸福感は薄れ、逆にイライラしたり、急に気分が不安定になったり、薬のことしか頭になくなったりするのである。
それと同じように、会っても最初ほど満たされないが、一緒にいないと落ち着かないという状態を呈してくる。
恋愛状態の脳は、ドーパミン中毒を起こした薬物中毒の患者と似ている。
薬物中毒の患者であれば、薬さえ手に入れれば目先の満足は得られるが、恋愛の場合には、相手は人間である。
思い通りに、デートに応じてくれなかったり、愛情を返してくれなかったり、欲望を満たしてくれない。
そうなると、普段は理性的できちんとした人も、狂ったようになってしまうということも起こる。
言ってみれば、恋愛状態の脳とは、狂気と紙一重である。
恋愛がきっかけで、精神的な病気が始まることも珍しくないが、脳の中で起きていることを考えると、無理からぬことなのである。
恋愛は、これほど狂おしく、尋常ならざる状態に人を置く。
ある種の異常心理状態とも言える。
通常とは違うように行動することも珍しくない。
そういう危うい状況で、人は人生を左右しかねない選択をしなければならない。
だから、なおのこと、判断を誤りやすいのである。
おまけに、恋愛は相手がいる話である。
こちらは平静でも、相手だけ狂気じみた状態になるという場合もある。
相手の性質を見誤ったばかりに、命を奪われてしまうということも起きかねない。
身を誤らないためにも、普段から自分を見つめ、相手を見極める目を磨いておかなければならない。
相手の魅力にばかり溺れずに、危険な性質にも注意を注ぐことも必要である。
そうした側面についての知識を備えておくことは、陥りやすい危険から身を守る上で役に立つ。
自分という殻を超える瞬間
それにしても、恋愛をすると、人はなぜそんな状態になってしまうのだろうか。
人が人を愛するとき、狂気と紙一重の状態へと、なぜ駆り立てられねばならないのだろう。
神はなぜ、そんな危険な状態に人生の重大事を委ねる仕組みを作ったのだろう。
不思議に思われるかもしれないが、それにはそうならなければならない必然性があるのだ。
人が人を愛するという行為は、自分がまとった社会的な仮面を脱ぎ捨て、真っ裸になる営みでもある。
自分という存在が、もう一人の別の存在とつながり合うためには、自分の殻を打ち破らねばならない。
自分という枠を超えて、相手を求めねばならない。
いわば自分という檻を飛び越せるだけの跳躍力が必要なのである。
そのためには、日々の日常と同じ平穏な状態では、無理なのだ。
ベルグソンという哲学者は、人間が生きる行為の本質は、「生の跳躍(エラン・ヴィタル)」にあるとしたが、生の跳躍の至高の瞬間は、自分を超え、愛する人と一つになる瞬間である。
しかし、跳躍するためには、地面を離れなければならない。
今まで確かなものとして守っていたものを、踏み台に蹴って、あてどのない空中へと身を躍らさなければならない。
それは、どこへむかうともしれない賭けであり、一つ間違えれば、身を誤るかもしれない。
けれども、その一か八かの賭けに踏み切ることができなければ、生の跳躍は起こらず、恋愛が成就することも、新たな人生のページが開かれることもない。
思い切って、慣れ親しみ、確かで安全な状況を振り捨てる勇気をもつことも求められるのだ。
「跳ぶのが怖い」という状況は、その賭けに踏み切れずに、今までの自分にしがみついている状況をさしている。
恋愛に醒めすぎている人では、我を忘れることができない。
そんな人にとっては、これまでの自分から自由になろうと身を躍らす勇気も必要になる。
つまり、恋愛という行為は、一方では、勢いをつけて、身を投げ出す勇気が必要なのだが、同時に、身を預ける相手を間違わないだけの理性と計算も忘れてはならない。
感情と理性のギリギリのバランスを取る行為なのだ。
恋愛状態が狂気と紙一重ともいえる脳の状態を引き起こす以上、そこでは、日常的な世界では起こりにくい、さまざまな危険も待ち受けている。
それを、予見して行動できるかが、結果を大きく左右するのである。
必要な客観的な指針
正しい相手を選択し、幸福な関係への一歩を踏み出していくためには、自分と相手の関係を客観的に眺める判断基準が必要である。
それによって、自分の恋愛にも見通しをもち、期待値とリスクを推し量り、失敗のリスクを減らすことができる。
ところが、現実問題、十代、二十代の若者だけでなく、三十代、四十代になっても、恋愛というものがどういう仕組みで始まり、動いていくのかということについて、多くの人は、極めて一面的な知識しか持ち合わせていない。
かなり運任せに、我が身を委ねてしまうことも多い。
新たな一歩を踏み出したと思ったのに、気がついてみたら、まったく同じ失敗をしていたということもありがちだ。
恋愛について、一角のことを経験してきたつもりの人も、自分だけの狭い体験で見ているに過ぎないため、実際には死角だらけである。
誰もが、自分の人生を必死に生きているのだから、それは当然のことである。
他人がどんなふうに感じ、どんなふうに行動し、恋愛をするのかまで、考えている暇はない。
だが、恋愛においては、自分だけでなく、別の意思や人格をもった相手が存在するのであり、まさにその点が重要なのである。
自分の視点でしか見えていない限り、客観的な見通しを得ることも、相手がどう感じているかを読み取ることもできないのである。
相手があってこそ成り立つ恋愛は、いくらこちらが努力しても、うまくいかない場合もある。
うまくいかないのは、こちらのやり方が悪かったとか、努力が足りなかったとかといった問題だけではない。
本人が、まったく気づいていない何かが食い違ってしまっているのである。
人間と人間の出会いを左右し、それを実りあるものにしたり、不幸のどん底にたたき落としたりするもの、それは、運命としか呼べないものなのだろうか。
パーソナリティについて研究する中で、気づかされたことの一つは、人々が「運命」と呼ぶものが、実は、天が定めたものでも何でもなく、自分自身のパーソナリティの偏りが作り出したものだということである。
恋愛における「運命」もまた、然りである。
そのことを理解し、適切に対処する術を学ぶことが、占いに一喜一憂したり、「運命だ」と嘆いたりせずに、幸福な人生を手に入れる、もっとも着実な方法なのである。
パーソナリティの偏りと組み合わせが、恋愛の「運命」を左右する
性懲りもなく同じ失敗を繰り返すのは、なぜか?
男運が悪いとか、女運が悪いと言って、嘆く人がいる。
あるいは、なかなかいい人に縁がなくてとか、出会う機会がなくてと、こぼす人も少なくない。
また、好きになっても、いつも片想いばかりでと、恋愛が成就しないと諦める人もいる。
どうして、うまくいかないのだろうか。
実は、こうしたケースには、共通する問題がある。
男運が悪いとか女運が悪いとか、運のせいにしている人の話をよく聞いてみると、同じようなタイプの相手ばかりを、性懲りもなく選んでいることが多い。
本人は、相手が変わったのだから、今度こそ幸福が待っているのではないかと思い、新たな関係に入るのだが、相手が別人になったというだけで、相手の本質的な部分が同じであれば、また同じようなことが起きてしまう。
つまり、相手を見分ける目がなければ、同じような相手を選んでいても、自分では、新しいタイプの人を選んだ気になってしまうのである。
出会いのチャンスがなくてとか、片想いばかりでと、嘆いている人の場合も、大きな錯覚がある。
出会いに恵まれている人は、たまたま、いい人と出くわす機会が多く、良縁が殺到し、出会いがない人は、自分を好きになってくれる人が目の前に現れないというような錯覚である。
実際には、出会いの多い人は、自分からアクションを起こして、網を仕掛けている人なのだ。
どんなに美しく魅力的な人でも、網を仕掛ける術を知らなければ、意中の人を捕まえることは難しい。
寄ってくるのは、歓迎できない相手ばかりだということもある。
その見分けがつけられないと、どんなに魅力や才能に恵まれていても、不釣り合いな相手に、自分を安売りしてしまう。
ましてや、釣り糸も垂らさずに、バケツの中に、ふさわしい人が飛び込んできてくれるようなことは、何十年待っていても起こらない。
片想いにばかりなる人は、自分にふさわしい相手とふさわしくない相手を見極めることができていない。
どんな素晴らしい人であれ、自分の価値をわかってくれる人に売り込まなければ、恋愛は成立しない。
わざわざ不向きな相手に、間違ったアプローチの仕方をしているのである。
ところが、恋愛がうまくいかない人は、いつも同じようなパターンを繰り返してしまう。
それはなぜなのだろうか。
偏りが同じ軌道を歩ませる
人は自由意思をもつ存在である。
何事にも縛られずに、自由に考え、決断し、行動することができるはずだ。
しかし、現実は違う。
感じ方や考え方も、決断や行動の仕方も、実は知らず知らず、意識しない何かに縛られているのである。
本心とは違う選択をしてしまったり、一番望んでいることを、最初から諦めてしまったりすることが何と多いことか。
また、あんなに後悔したはずなのに、また同じような失敗をしてしまうこともしばしばだ。
人は、幸福な人生を願いながら生きているはずなのに、わざわざ幸福を遠ざけてしまうような生き方を、わざわざしてしまう。
そんなとき、「所詮、運命なのだ」と、諦めの言葉をつぶやきたくもなる。
だが、本当にそうなのだろうか。
空にある星や太陽は、地球の周りを回っているように見える。
三百年余り前まで、人々は、天が地球の周りを回っていると堅く信じていた。
いわゆる天動説である。
そこにコペルニクスという人物が現れて、動いているのは、地球の方だという地動説を唱えた。
コペルニクスは人々を惑わしたかどで、磔にされて、焼き殺されてしまった。
けれども、今では、誰もがコペルニクスが正しかったことを知っている。
この天動説という誤謬(誤った認識)は、本当は自分に原因があるのに、周りに原因があるように見えてしまう典型的な例である。
運命というものも、この天動説によく似ている。
天によってわれわれの人生が動かされているという運命論も、天動説と同じ誤謬の結果なのである。
「運命」のように見えるが、実際は、われわれ自身に原因があるのだ。
私がこのことをはっきり認識するようになったのは、パーソナリティ障害の臨床や研究においてである。
あるタイプの人は、同じような人に出会い、同じような騙され方をして、同じような結末を迎えることを、何度でも繰り返していた。
また、別のタイプの人は、大恋愛をして、結ばれるのだが、相手を裏切って別れるということを繰り返していた。
また、別のタイプの人は、愛すれば愛するほど、相手を縛ってしまい、いつのまにか暴力をふるってしまうということを繰り返していた。
さまざまなタイプがあるが、それぞれの人の心に備わっている偏りが、同じような出会いと展開を招き寄せ、同じような結末を迎えるということを繰り返していたのだ。
磁石をもたずに砂漠をどこまでも歩くと、やがて同じところに戻ってきてしまうという。
左右の足の長さの微妙な違いによって、まっすぐ歩いているつもりでも、いつしか巨大な円を描いてしまうのである。
それと同じように、われわれの心と行動の偏りは、われわれが知らないうちに、同じような人生行路を歩ませてしまう。
何年も経ってから振り返ると、また同じことをしていたと気づくことになるわけだ。
運命と見えたものは、実は自分自身のパーソナリティの偏りが生み出した、巨大な円なのである。
同じところを何度も歩きながら、「これが、自分の運命だ」と嘆くのは愚かではないか。
まっすぐ進んでいくために必要なのは、確かな方位磁石と地図、つまり客観的な指針なのだ。
あなたの顔色をうかがいながら、あなたをがっかりさせないように与えられた、玉虫色のアドバイスでは役に立たない。
もっとはっきりと、あなたは、こういう方向に曲がっていきやすく、こういう危険に陥りやすいと、客観的に教えてくれる指針が要る。
それによって、自分の偏りを認識し、それを修正する術を学んでいけばいいのである。
パーソナリティは、一つの様式(スタイル)である
人はそれぞれ固有の認知、感情、行動の様式をもっている。
この持続性をもった様式は、十八歳を過ぎた頃には、ほぼ固まってくる。
この認知、感情、行動の様式のことを、精神医学や心理学では、パーソナリティ(人格)という。
責任感がとても強い人もいれば、とてもいい加減で、都合が悪いことは、すぐに人のせいにする人もいる。
自信たっぷりの人もいれば、自信がなく、いつも失敗するのではないか、人から非難されるのではないかと恐れている人もいる。
人付き合いが活発で、コミュニケーションを楽しむ人もいれば、一人でいる方が気楽で、必要以外はあまり口を利きたがらない人もいる。
こうしたそれぞれの特性が組み合わさって、一つの人格が作られるが、ここ一世紀ほどにわたる多くの先達の研究からわかってきたことの一つは、そうした特性は、ランダムに組み合わさるわけではなく、結びつきやすい性質があって、それぞれ纏まりを持った、いくつかのタイプに分かれるということである。
臨床的な研究だけでなく、疫学的、統計学的な研究により、検証が重ねられてきた結果、大きく分けて十タイプくらいがあるということで、決着がついてきている。
パーソナリティのおよそ半分は、生まれつき持った気質であり、遺伝的要因により決定される。
後の半分くらいは、後天的に身につけた性格であり、環境的要因に左右される。
両者が混じり合って、パーソナリティというものが出来上がっている。
一旦出来上がると、これは、そう簡単には変えられない持続性と構造的安定性をもっている。
鳥は空を飛び、獣は地を駆け、魚は水中を泳ぐように、それぞれ生き方のスタイルというものをもっている。
パーソナリティについても、同じことが言える。
生物学的な特性と、心理社会的な学習の結果身につけた認知、行動レベルの反応パターンがぴったりはまり合うことで、堅固な様式が出来上がっている。
たとえば、几帳面で、潔癖で、責任感が強いが、妥協が苦手であるといった一連の特性をもった強迫性パーソナリティでは、固執性という遺伝的に決定される気質と後天的に身につけた自己超越(自分よりも集団への貢献を優先する傾向)という性格特性が合わさって成り立っている。
固執性と自己超越の両方を満たす人生の基本戦略として、このタイプの人は、秩序維持戦略という生き方の方針をとるパターンが出来上がっていくのである。
過剰な自信、傲慢で尊大な態度、他人を当然のように利用し、他人の痛みには無関心な傾向、賞賛に対する欲求といった特徴をもつ自己愛性パーソナリティでは、損得で動く傾向が強い報酬依存という気質的要素と、自己志向という後天的な要素の強い特性が合わさっている。
報酬依存と自己志向の両方に叶った戦略として、自己を絶対視し、他人を見下すことで、自分を守ろうとする自己愛的防衛戦略という生き方を身につけている。
もって生まれた気質、後天的に身につけた価値観や考え方、さらに行動の戦略の三者が、緊密にはまり合うことによって、そう簡単には変わることのない構造を作り上げているのである。
それが、パーソナリティである。
パーソナリティによって、恋愛のスタイルも変わる
一人一人の認知や行動のスタイルには特有の癖があり、また、その人その人で、何に価値を置くかという点も異なっている。
認知や行動のスタイルが違えば、恋愛の仕方も違ってくる。
価値観が違えば、話をしていてもどこか食い違ってしまう。
価値観というものも、パーソナリティのタイプによって、おおよそ決まる。
愛情を第一に考えるタイプもあれば、利益や損得を第一に考えるタイプもある。
理屈に合うかどうかを第一に考えるタイプの人もいるし、義理人情や世間体を何よりも重視する人もいる。
自己実現に重きを置く人もいれば、家族や組織のためなら、責任に殉じようとする人もいる。
どれが良いとか悪いとかというのではなく、それぞれの人格によって大切にするものが違うということである。
それは、米を主食にするか、パンを主食にするか、イモやトウモロコシを主食にするかといった生活習慣の問題とほとんど同じである。
自分と同じように、愛情を第一に考えてほしいと思ったところで、米が一番美味しいと思っている人に、イモを毎日食べさせようとしても、もう飽きたと言われるだけである。
気質の違いも、恋愛の仕方を大きく変える。
新奇性探求の高い人は、次々と新しい刺激を求めようとするし、固執性の強い人は、ねちっこく一人の人に執着する。
損害回避の強い人は、周囲の勧める無難な相手を選ぶだろうし、報酬依存の強い人は、恋愛といえども、打算抜きには考えられない。
行動のスタイルが異なるように、求愛行動のやり方も、それぞれ異なる。
相手の気を惹こうと、見事な羽を広げる者もいれば、甲高い声で鳴く者もいる。
餌で相手の油断を誘う者もいれば、真っ赤になったお尻を見せる者もいる。
パーソナリティのタイプによって、好まれる求愛の仕方も異なるのである。
相手に合わない行動スタイルでアプローチしようとしても、相手は当惑するだけである。
パーソナリティによって、生き方も違えば、恋愛の仕方や愛情の様式も違うのである。
パーソナリティのタイプが見抜けるようになれば、その人が、どういう愛し方、愛され方を好むのかが、わかってくる。
ハートを射止めるために、どんなふうなアプローチが有効なのか、愛情を育む上で、何がポイントで、どんな落とし穴が待ち受けているのか。
どうすれば、それをうまく避けることができるのか、といったことも予測がつくようになるのである。
行動や認知(受け止め方)の癖を知り、価値観や生き方のスタイルを理解した上で、ふさわしい相手を選び、ふさわしい愛し方をすることは、充実した愛情生活や豊かな人生を手に入れるチャンスを増やすのである。
自分自身を知れば、相手も見えてくる
パーソナリティ分析は、パーソナリティのタイプや特性を知ることによって、その人の行動や心理を理解し、より適応的な対処を導き出す手法である。
二つのパーソナリティの間にそれを適用することによって、対人関係をより立体的に、深く理解し、生じやすい問題を未然に防いだり、改善に役立てることもできる。
しかし、自分は心理学や精神医学の専門家でもないし、パーソナリティのタイプを見分けることなどできるだろうかと、心配されるかもしれない。
生まれ月や血液型で、タイプがわかるという単純なものでないのは確かであるし、それなりに、知識と人間観察力を養ってもらう必要はあるが、それを学ぶこと自体が、あなたの人間に対する目を養っていくことにつながる。
タイプを見分ける上で、手がかりとなる特徴を具体的に説明してあるので、よく読んでいただければ、あなたも、段々とパーソナリティ・タイプを見分けられるようになる。
普段は、些細なこととして見逃していたことが、実は、とても重要な意味を持つサインだったこともわかるだろう。
何気なく相手が示すサインを、少し気をつけて見ているだけで、あなたは、相手のタイプが見抜けるだけでなく、どういう心の動きや行動の仕方をする人なのかが、おもしろいくらいに見えてくるはずだ。
少々カモフラージュして、別人を演じているような場合でも、ふと漏らす一言やちょっとした特徴で、それほど苦労せずに、相手の正体を見破ることができる。
もちろん、実践を積み重ねていけば、人物眼はいっそう磨かれていくだろう。
それでも、不安だという人のために、簡単にパーソナリティのタイプをチェックできるシートを用意した。
本文の内容と合わせて、ご活用いただきたい。
(※事務局注:書籍に収録してあります。)
最後にもう一つ、大事なことを述べたいと思う。
それは、他人を知るためには、自分自身を知る必要があるということである。
本書を、自分自身を知るためにも、活用して欲しい。
自分自身をよく知ることができるようになると、自分をコントロールできるようになり、相手のことも、冷静な目で見ることができるようになる。
自分自身の偏りを自覚することによって、歪んだレンズではなく、まっすぐなレンズで相手を見ることができるようになり、幻ではない、相手の客観的な姿が見えやすくなるのだ。
自分のパーソナリティと相手のパーソナリティが把握されると、二人の間で起きていることが、何なのかが、その正体がわかってくる。
対人関係と同じように、恋愛には、相性があるわけだが、その相性とは、二つのパーソナリティの組み合わせによって決まるものである。
パーソナリティとパーソナリティの相性についても、本書は、かなりのページ数を費やして、具体例をまじえながら説明してある。
相性について学ぶことで、いっそうパーソナリティというものへの理解も深まり、何よりも、あなたの恋愛の実践に役立てることができるだろう。
本書を活用するために
本書では、パーソナリティ・タイプの中で、一般に出会うことの多い、九つのパーソナリティ・タイプについて学んでいく。
自分のパーソナリティ・タイプはどれかを、よく見極めていただきたい。
また、身近にいる人やパートナーやその候補となる人のパーソナリティ・タイプについても理解を深めていただきたい。
それぞれのタイプの特徴や背景について説明するとともに、そのタイプの人に、どんなふうにアプローチし、恋愛を発展させていけば、うまく愛されるのか。
逆に、このタイプの人が、恋愛をするときに、どういう恋愛の仕方がふさわしく、幸福を呼び寄せやすいのかといったことについて述べていきたい。
さらに、詳しく見ていくためには、もっとも当てはまるパーソナリティ・タイプ(第一のパーソナリティ)だけでなく、二番目に当てはまるタイプ(第二のパーソナリティ)、三番目に当てはまるタイプ(第三のパーソナリティ)についても見ていく必要がある。
通常のパーソナリティには、いくつかの傾向が併存しているのが普通である。
第二、第三のパーソナリティまで把握することで、自分や相手の全体を、より深く多面的に理解できるのだ。
それぞれのパーソナリティは、同時に併存している場合もあれば、時と場所によって、また、相手によって、不連続に出現することもある。
対人関係において、一つの戦略がうまくいかないときには、別の戦略が姿を現すのである。
この点を理解しておけば、相手の態度が変化しても、戸惑うことなく対処できるし、上手に愛するためにも、その人の重要な構成要素を、きちんと押さえておくことが必要なのだ。
こうして、パーソナリティにあった恋愛の仕方について学んでいただいた上で、さらに、それぞれ異なるパーソナリティの組み合わせごとに、その相性やたどりやすい運命、気をつける点などについて、具体例をまじえながら説明していきたい。
怖いほど「当たる」と思われるだろうが、それは、「当たる」のではなく、塩酸と水酸化ナトリウムを混ぜたら、食塩になるという事実を述べるのと同じように、組み合わせの結果を経験科学的に述べているに過ぎない。
爆発する危険のある組み合わせや、何の反応も起こらない組み合わせがあるのと同じように、パーソナリティ同士の組み合わせにも、激しい反応を起こすものから、混じり合わない組み合わせまで、さまざまなのである。
もっと細かく見ていくために、お互いの第一のパーソナリティだけでなく、第二、第三のパーソナリティとの相性も見ていくとよいだろう。
どういう部分で、衝突や行き違いが起こりやすいか、安定した愛情を築いていくには、お互いどういう部分を引き出し、生かしていけばいいのかが、より詳しく見えてくるはずである。
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