親を求めるがゆえに
もう一つの不幸な事態は、守ってくれるはずの親から虐待を受け、安全が脅かされるという状況である。
この場合、子どもは親を求めつつ、同時に親を恐れるというアンビバレントな状況におかれる。
しかも、親がいつ暴力や言葉の虐待を加えてくるかわからないといった状況は、子どもにとって予測も対処も困難であり、ただ自分は無力で、悪い存在だという罪の意識や自己否定を抱えさせられてしまう。
どんな理不尽な仕打ちをされようと、子どもは親を愛している。親のことを求めようとするのだ。
その結果、痛ましいことが起きてしまう。
親を求めるがゆえに深く傷つき、その傷は、親を責めるのではなく、むしろ自分を責める方向に向かうのである。
自分がダメな子だから、親は愛してくれないのだ。親は自分を否定するのだ。そう考えて納得しようとする。
外の世界を知り、親と自分との関係をもっと客観的に見るようになったとき、子どもは初めて、それが決して当たり前のことではないことに気づくのだが、それまでは、どんな日常も、子どもにとってはそれ以外にはない唯一無二の現実なのである。
親を求め、親に認められたいという気持ちは、それがほどよく満たされて育てば、大人になる頃には、あまり支配力をもたない。
逆に、その思いを満たされずに育った人ほど、いくつになっても、心の奥底で親に認められたい、愛されたいという思いを引きずることになる。
愛着障害を抱えた人では、大人になっても、そうした気持ちが解消されていない。
親に過度に奉仕したり気に入られようとするか、求める気持ちが裏返って、親を困らせてたり、反発したりするという形で、こだわり続けるのである。
安全基地と探索行動
愛着という現象が、対人関係のみならず、それ以外の幅広い能力の発達にもかかわってくるのには、愛着のもう一つの特性がかかわっている。
愛着の絆が形成されると、子どもは母親といることに安心感をもつだけでなく、母親がそばにいなくても次第に安心していられるようになる。
安定した愛着が生まれることは、その子の安全が保障され、安心感が守られるということでもある。ボウルビィの愛着理論を発展させた、アメリカの臨床心理学者のメアリー・エインスワースは、愛着のこうした働きを、「安全基地」という言葉で表現した。
子どもは、愛着という安全基地がちゃんと確保されているとき、安心して、外界を冒険しようという意欲をもつことができる。
逆に、母親との愛着が不安定で、安全基地として十分機能していないとき、子どもは安心して探索行動を行うことができない。
その結果、知的興味や対人関係においても、無関心になったり、消極的になったりしやすい。
守られていると感じている子どもほど、好奇心旺盛で、活発に行動し、何事にも積極的なのである。
一歳半を過ぎる頃から、子どもは、徐々に母親から離れて過ごせるようになるが、ストレスや脅威を感じると、母親のもとに避難し、体を触れ合わせ、抱っこしてもらうことで、安全を確保し、安心を得ようとする。
母親が安全基地として、うまく機能していると、子どもは安心して活発な探索を行い、知的にも、社会的にも、発達を遂げていく。
こうして、三歳ごろまでに、子どもは、一定期間であれば、母親から離れていても、さほど不安を感じることがないようになり、また、母親以外の人物とも、適度に信頼した関わりをもつことができるようになる。
母親を主たる愛着対象、安全基地として確保しながら、同時に、他にも従たる愛着対象や安全基地をもち、活動拠点を広げ始めるのである。
このことは、われわれ大人においても基本的に同じである。
安定した愛着によって、安心感、安全感が守られている人では、仕事にも対人関係にも積極的に取り組みやすい。
子どもであれ大人であれ、無気力だったり、消極的だったり、前向きな努力から逃げてしまいがちだったりするとき、そこには愛着の問題がひそんでいることが多い。
無気力で逃避的なことを責める前に、安心できる居場所という「安全基地」がまず確保されているかどうかを、考えて上げることが先決だろう。
もし安全基地を与えるよりも、脅かすことをしているならば、その点を改めるだけで、事態は好転するだろう。
「安全基地」を確保している人は、外界のストレスにも強い。
さらに言うと、幼い頃にしっかりと守られて育った人では、大人になってからも、自分を守ることができやすいのである。
たとえば、ある研究では、二歳の時点で親から十分なサポートを得られた人では、青年期に恋人に、気軽に頼ることができる傾向を認めている。
逆に言えば、二歳の時点で、親からの支えが乏しかった子どもでは、恋人にうまく甘えられないということである。
愛着スタイルや愛着の安定性が、なぜ、うつ病やアルコール依存症の発症リスクに関係しているのかは、この点と無関係ではない。
ただ気を付けたいのは、過保護になってサポートを与え過ぎ、子どもの主体的な探索行動を妨げたのでは、良い安全基地ではなくなるということである。
安全基地とは、求めていないときにまで縛られ場所ではないのである。
それでは、子どもを閉じ込める牢獄になってしまい、依存的で、不安の強い、自立できない子どもを育ててしまう。
ストレスと愛着行動の活性化
十分な安心が得られる「安全基地」が確保されていると、次第に「安全基地」から遠く離れていようと、あまり不安を感じることもなく、探索行動、つまり仕事や社会的な活動に打ち込めるようになる。
安全基地は、いざというときの避難場所でもある。
必要になった時にいつも応じてもらい、助けを与えてくれるという安心があれば、いつもすぐそばにいる必要はないのである。
しかし、何か特別な事態が生じて、ストレスや不安が高まったときには、愛着行動が活発になる。
それが健全な状態であり、自分を守るために重要なことである。
愛着行動には、さまざまなヴァリエーションがある。
小さい子どものように、愛着している人物と一緒にいようとしたり、体に触れようとしたりといった直接的な行動だけでなく、愛着する人物について考えたり、かつて相手が言ってくれたり、してくれたことを思い出したりする精神内的な活動も含まれる。
かつてアウシュビッツなどの強制収容所に閉じ込められた人たちが、いかにして精神の平衡を保ったか。
その点において、非常に重要だったのは、愛する人のことを回想することであったと、フランクルは『夜と霧』で述べている。
フランクル自身、妻があたかもそばにいて、囁いてくれるだろう言葉を脳裏に思い浮かべることで、過酷な試練に耐え、生きながらえることができたのである。
愛着行動は、ストレスや脅威が高まった状況で、愛着システムが活性化された結果、誘発される。
この愛着行動の誘発のされかたには、人によって大きな違いがあり、その違いに、各人の愛着スタイルの違いが、もっともはっきりと示される。
安定した愛着においては、ストレスや脅威に対して、愛着システムが適度に活性化され、ほどよく愛着行動が増加することで、ストレスの緩和や安定の維持に役立つ。
ところが、人によっては、ストレスや脅威を感じても、愛着行動がほとんど見られないという場合がある。
そうしたケースでは、愛着システムの不活性化が起きていると考えられる。
通常なら愛着行動が高まる場面でも、愛着システムが活性化されないのは、愛着システムができあがる頃に、愛着行動を抑えた方が、生き残りに有利だった結果、不活化戦略をとるようになったためだと考えられる。
つまり、愛着を求める行動をとっても、拒絶されたり、何の反応もかえってこないことが繰り返されると、愛着行動を続けることは、余計傷を受けるだけであり、生存上不利である。
その結果、最初から求めない行動スタイルを身につけたと理解される。
また、別の人では、ストレスや脅威に対して、過剰なまでの愛着行動が引き起こされる場合もある。
このタイプの人では、愛着システムの過剰活性化が起きており、少しでも愛着対象が離れていきそうな気配を感じただけで、強い不安を覚え、大騒ぎをして、愛着対象がそばにいるほかないようにする。
このタイプの人では、愛着システムが育まれる時期に、過剰活性化戦略が、自分の安全や安心を守るのに有利だった結果、そうした行動スタイルを身につけたと考えられる。
たとえば、養育者の関心が薄く、大げさに騒いだ時だけ、かまってもらえたというような状況である。
もっと複雑な反応がみられる場合もある。
ストレスや脅威が高まったときに、愛着行動とは一見正反対な行動が引き起こされる場合である。本当はそばにいてほしい人を拒否したり、攻撃したり、無関心を装ったりするという逆説的なパターンだ。
これも愛着行動の過剰活性化戦略の一つだとも言えるが、こうした天邪鬼な反応は、本人にとっても不利益にしかならない非機能的なものであり、その根底には怒りがある。
こうした逆説的な反応は、愛着の問題が深刻なケースほど強く、頻繁に見られる。
愛着対象が何度も交代したり、虐待などで傷つけられ、求める気持ちと見捨てられることへの不安や怒りが、アンビバレントに同居する結果だと考えられる。
子どもの四つの愛着パターン
これまで述べてきた、愛着に影響するいくつかの要素、愛着が安全基地としてうまく機能しているか、ストレスに対して、どういう愛着行動を行うか、によって、その子どもの愛着パターンはおおむね決まってくる。
子どもに見られる四つの愛着パターンを知っておくことは、大人の愛着スタイルを理解するうえでも、非常に役立つ。
子どもの愛着パターンは調べるために、よく用いられるのは、発達心理学者のメアリー・エインスワースが開発した新奇場面法という検査である。
この方法では、子どもと母親を離し、また再会させるという場面設定をして、そのときの子どもの反応を観察することで、愛着のパターンを分類する。
エインスワースは、「安定型」、「回避型」、「抵抗/両価型」の三つに分類したが、その後、メインとソロモンが、「混乱型」と呼ばれる四番目のタイプを同定し、四つに分類されることが多い。
安定型以外の三つのタイプは不安定型と呼ばれる。
安定型は、母親から離されると、泣いたり不安を示すが、その程度は、過剰というほどではなく、母親が現れると、素直に再会を喜び、母親に抱かれようとする。
約六割強の子どもは、この愛着パターンを示す。
安定型では、母親が安全基地として、うまく機能しており、ストレスを感じたときに適度な愛着行動を起こしていると考えられる。
回避型では、母親から引き離されても、ほとんど無反応で、母親と再会しても目を合わせず、自分から抱かれようともしない。
回避型は、安全基地をもたないため、ストレスを感じても、愛着行動を起こさないタイプだと言うこともできる。
この愛着パターンは、一割五分~二割の子どもに認められる。
小さい頃から施設で育った子どもに典型的に見られるが、親の関心や世話が不足して、放任になっている場合でもみられる。
回避型の子どもは、その後反抗や攻撃性の問題がみられやすい。
抵抗/両価型では、母親から離されると、激しく泣いて強い不安を示すのに、母親が再び現れて抱こうとしても、拒んだり、嫌がったりする。
しかし、一旦くっつくと、なかなか離れようとしない。
母親の安全基地としての機能が十分でないために、愛着行動が過剰に引き起こされていると考えられる。
このタイプは一割程度に認められる。
かまってくれる時と、無関心なときの差が大きいケースや、神経質で厳しく過干渉な親の場合が多い。
抵抗/両価型の子では、その後、不安障害になるリスクが高く、また、いじめなど被害に遭いやすいとされる。
混乱型は、回避型と、抵抗型が入り混じった、一貫性のない無秩序な行動パターンを示すのが特徴である。
まったく無反応かと思うと、激しく泣いたり、怒りを表したりする。
肩を丸めるなど、親からの攻撃を恐れているような反応を見せたり、逆に親を突然叩いたりすることもある。
混乱型は、虐待を受けている子や親がひどく不安定な子どもにみられやすい。
安全基地が、逆に危険な場所となることで、混乱を来していると考えられる。
親の行動が予測不能であることが、子どもの行動を無方向なものにしているのである。
混乱型の子どもでは、その後、境界性パーソナリティ障害になるリスクが高いとされる。
統制型と三つのコントロール戦略
もう少し年齢が上がって、四歳から六歳くらいの年齢の頃から、混乱型の中に、特有のパターンを示す子どもたちがみられるようになる。
それは、子どもの方が親をコントロールするタイプで、攻撃や罰を与える行動で親をコントロールしようとする場合と、親の相談相手になったり、親をなぐさめてコントロールしようとする場合とがある。
そんな小さいうちからと思われるかもしれないが、子どもによっては、わずか四歳頃から、親の顔色を見て、機嫌をとったり、慰めようとしたりという行動を示すのである。
親が良くない行動をとったときや思い通りにならないときに、叩こうとするといった攻撃的手段に向かうことは、さらに早く、三歳ごろから認められる場合もある。
このコントロール行動は、無秩序な状況に、子どもながらに秩序をもたらそうとする行動だと言えるだろう。
その後の人格形成に大きな影響を及ぼすことが多く、重要である。
愛着からパーソナリティへの分化において、ひとつ重要な鍵を握るのは、相手をコントロールしようとする傾向が強いか弱いかということと同時に、どういうコントロールの仕方を好むかという点である。
不安定な愛着状態におかれた子どもでは、三、四歳の頃から、特有の方法によって、周囲をコントロールすることで、保護や関心が不足したり、不安定だったりする状況を補うようになる。
それが統制型の愛着パターンと呼ばれるもので、当初、見られるようになるのは、攻撃や悪いことをすることによって、周囲を動かそうとするパターンと、良い子に振る舞ったり、保護者のように親を慰めたり、手伝ったりすることで、親をコントロールしようとするパターンである。
そうしたコントロール戦略は、年が上がるごとに、さらに分化を遂げて、特有のパターンを作りだしていく。
それらは、大きく三つの戦略に分けて考えることができる。
すなわち、支配的コントロール、従属的コントロール、操作的コントロールである。
支配的コントロールは、暴力や心理的優越によって、相手を思い通りに動かそうとするものである。
従属的コントロールは、相手の意に従い、恭順することで、相手の愛顧を得ようとする戦略である。
一見するとコントロールとは正反対に見えるが、相手に合わせ、相手の気に入るように振る舞ったり、相手の支えになったりすることで、相手の気分や愛情をコントロールしようとする。
操作的コントロールは、支配的コントロールと従属的コントロールが、より巧妙に組み合わさったもので、相手に強い心理的衝撃を与え、同情や共感や反発を引き起こすことによって、相手を思い通りに動かそうとするものである。
良い子だったオバマ
バラク・オバマは、子どもの頃から、誰にでも合わせられる「良い子」だったことが知られている。
彼は学校でも、一度も問題を起こすこともなかった。
彼が自伝の中で、ドラッグやアルコールに依存した時期があったことを告白したとき、もっとも驚いた一人は、彼の担任だった教師である。
そういう不安定で、反社会的な面は、一切見せなかったからである。彼は、「良い子」や「優等生」を演じきったのである。
実の母親は忙しく、彼にはあまりかまっていられなかった。
彼の面倒を見たのは、ハワイでは祖父母だった。
母親が再婚して、インドネシアにいたときには、彼は見知らぬ人間の中で、完全なエイリアンであり、疎外感を味あわずにはいられなかった。
しかし、彼は、母親にほとんど反抗することもなく、母親に対しては、ひどく従順だった。
彼の従属的戦略は、学校での境遇によって、さらに強められた。
学校で、彼はつねに極めつけのマイノリティだった。
インドネシアの学校では、たった一人外国人だったし、ハワイの高校でも、たった一人の黒人だった。
そうした中で、彼は周囲に適応するためには、従属的戦略を取らざるを得なかったとも言える。
いずれのコントロール戦略も、不安定な愛着状態による心理的な不充足感を補うために発達したものである。
この三つのコントロール戦略は、比較的幼い頃から継続して見られることが多い一方で、大きく変化する場合もある。
また、相手によって、戦略を変えてるということも多い。
それによって、バランスをとっているとも言える。
ビル・クリントンは、母親に対しては、とても従順であったが、それ以外の女性に対しては、支配的で、うまく利用したり搾取しようとした。
母親に支配されて育った人では、母親には従順だが、思い通りになる存在を見つけると、その人を支配するという傾向がみられることがよくある。
それによって、心のバラスをとっているとも言えるし、自分がされたように、相手を扱うことを無意識のうちに行っているとも言える。
いずれにしても、そうすることが有害な面をもつ一方で、安定に寄与しているのである。
誰に対しても、従属的にふるまうことは、やがて行き詰まりを生んでしまう。
ただ、問題は、上司や顧客、配偶者から受ける支配によるストレスを、より弱い存在に対して発散するという構造になっては、まずいということだ。
しかも、現代社会では、最後の受け皿になってくれる祖父母のような存在も、身近にいなくなっている。
愛着パターンから愛着スタイルへ
小さい頃の愛着スタイルは、まだ完全に確立したものではなく、相手によって愛着パターンが異なることも多いし、養育者が変わったり、同じ養育者でも、その人の接し方が変わったりしても変化する。
そのため、この時期の愛着の傾向は、愛着スタイルとは呼ばずに、愛着パターンと呼んで区別するのが普通である。
子どもにおいて調べることができる愛着パターンは、特定の養育者との間のパターンに過ぎず、まだ固定化したものではないのだ。
母親とは不安定な愛着パターンを示す子どもでも、父親とは安定した愛着パターンを示すという場合もある。
もちろん、その逆の場合も多い。
祖父母と安定した愛着が見られる場合もあれば、まったく見られない場合もある。
両親と安定した愛着関係をもつことができれば、安定した愛着スタイルが育まれやすいが、親との愛着が不安定な場合でも、それ以外の大人や年長者、仲間に対する愛着によって補われ、安定した愛着スタイルが育つ場合もある。
ただ、昨今のように人間関係が希薄になってくると、親以外との人間関係が乏しくなり、親との愛着がうまくいかないと、他で補われにくいという状況がある。
親を初めて、重要な周囲の年長者との間の愛着パターンが、積み重ねられる中で、十代初めころから、その人固有の愛着パターンが次第に明確になり、成人する頃までに、愛着スタイルとして確立されていく。
遺伝的な気質とともに、パーソナリティのもっとも基礎を作り、その人の生き方を気づかないところで支配しているのが、愛着スタイルである。
愛着スタイルは、恒常性をもち、特に幼い頃に身につけた愛着スタイルは、七~八割の人で生涯にわたって持続する。
ある意味、生まれもった遺伝的天性とともに、第二の天性としてその人に刻み込まれるのである。
それが、後天的な環境の産物であることを考えると、いかに重要かがご理解いただけるだろう。
遺伝的天性を変えることはできないとしても、愛着という後天的天性を守ることは可能だからだ。
愛着障害と不安定型愛着
愛着がもっとも深刻に障害されたケースでは、愛着をまったく求めようとしなくなったり、見境なく誰にでも愛着したりするようになる。
愛着とは、先に述べたように特定の人に対する特別な結びつきである。
特定の人に対して愛着行動を行おうとするのが本来であり、誰に対しても愛着を求めようとしない場合も、誰にでも愛着を求めようとする場合も、愛着形成に躓いているのである。
虐待やネグレクト、養育者の頻繁な交替により、特定の人への愛着が損なわれた状態は、反応性愛着障害と呼ばれ、不安定型愛着を示す状態の中でも、もっとも深刻な状態と考えられる。アメリカ精神医学会の診断基準を次ページに掲げる。
反応性愛着障害のうち、誰にも愛着しない警戒心の強いタイプを抑制性愛着障害と呼び、誰にでも見境なく愛着行動が見られる場合を脱抑制性愛着障害と呼ぶ。
診断基準Aの(1)が目立つものが前者、(2)が目立つものが後者である。
抑制性愛着障害は、ごく幼い頃に養育放棄や虐待を受けたケースに認められやすい。
愛着回避の重度なものでは、自閉症スペクトラムと見分けがつきにくい場合もある。
脱抑制性愛着障害は、不安定な養育者からの気まぐれな虐待や、養育者の交替により愛着不安が強まったケースにみられやすい。
多動や衝動性が目立ち、注意欠陥/多動性障害(ADHD)と診断されることもしばしばである。
最初、愛着障害が見出されたのは、戦災孤児の調査からであった。
戦争で親を失い、施設に入れられた子どもたちが、成長不良や発達の問題を引き起こしたのである。
それを最初に報告したボウルビィは、養子となった子どもや施設で育った子どもにも、そうした障害がしばしば認められることに着目し、愛着障害という概念を打ち立てた。
しかし、その後、実の親のもとで育った子どもにも、同様の問題が認められるようになる。
虐待やネグレクトの急増とともに、愛着障害は、再度クローズアップされることになったのである。
三分の一が不安定型愛着を示す
だが、一般の児童にも対象を広げて研究が進むにつれて、意外な事実が明らかとなった。
実の親のもとで育てられている子どもでも、当初考えられていたよりも高い比率で、愛着の問題が認められることがわかったのだ。
安定型の愛着を示すのは、三分の二で、三分の一もの子どもが不安定型の愛着を示すのである。
愛着障害と呼ぶほど重度ではないが、愛着に問題を抱えた子どもが、かなりの割合存在することになる。
さらに、成人においても、三分の一くらいの人が、不安定型の愛着スタイルをもち、対人関係において、困難を感じやすかったり、不安やうつなどの精神的な問題を抱えやすくなる。
こうしたケースは、狭い意味での愛着障害に、もちろん該当するわけではないが、愛着の問題を抱えていて、それがさまざまな困難を引き起こしているのである。
狭い意味での愛着障害、つまり虐待や親の養育放棄による「反応性愛着障害」と区別して、本書では、単に「愛着障害」と記すことにしたい。
広い意味での「愛着障害」は、筆者がこれまで提起している「愛着スペクトラム障害」と同義であり、不安定型愛着スタイルに伴って支障を生じている状態という意味である。
それにしても、三分の一もの人が不安定型愛着を示すということは、どういう意味を持つのだろうか。
虐待やネグレクトが三分の一もの家庭で起きていると解されるべきなのだろうか?
その問題については、次の章で考えるとして、ここでは、愛着の問題が非常に多くの人に関係する問題だということを理解していただければと思う。
ご自分が、不安定型愛着を抱えているかもしれないし、恋人や配偶者や子どもや同僚がそうであるかもしれない。
カップルのどちらかが不安定型愛着を抱える確率は、何と五十%を超えるのだ!
さらに、三人の人がいて、そのうち一人でも不安定型愛着を抱えている可能性は、七割にも達する!
不安定型愛着の何者かを知らずに世渡りすることは、片目を眼帯で覆って車を運転するようなものだと言えるだろう。
その後、積み重ねられてきた愛着の研究は、今では特別な子どもの問題を超えて、一般の子ども、さらには大人にも広く当てはまる真実を明らかにしてきている。
愛着障害は、現代人が抱えているさまざまな問題にかかわっているばかりか、まったく健康なレベルの人においても、その対人関係や生き方の特性を、もっとも根底の部分で支配しているのである。
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