愛着障害

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誰にも懐かない子、誰にでも懐く子 反応性愛着障害

トニィーの場合

アンナ・フロイトは、第二次大戦が激化した一九四一年、空襲下のロンドンで、戦災によって親を失ったり、親と離れて暮らさざるをえない子どもたちのための保育所を開設し、そこでの子どもたちの様子を克明に書き留めた。

それは、親と離ればなれになり、あるいは親を突然失った子どもたちに何が起こるのかの貴重な記録となった。


その中で、アンナは、トニィという子のケースを報告している。

トニィは、父親が兵士として戦争に行ったのち、母親と二人で暮らしていたが、その母親が肺結核になったため、方々をたらい回しにされていた。

夜尿がひどくなり、預かっていた家も嫌がるようになったため、二歳九ヶ月のときアンナの保育所に連れてこられたのである。


アンナは次のように書いている。

「われわれが観察してみると、彼はこれまでの経験の結果、完全に、また恐ろしいほど人間に無関心になってしまったことがわかった。

顔立ちは非常に良いけれども、表情がなく、たまに作り笑いをするくらいである。

恥ずかしがることもないし、でしゃばることもなく、自分の置かれたところに平気でいることができ、新しい環境に全く恐れを感じていないようであった。

どの人にも区別をつけることなく、誰にもしがみつかず、誰をも拒否しなかった。

食べ、眠り、遊び、誰とも問題を起こさなかった。ただ唯一の異常な特徴は、すべての感情が全くないと思えることであった」

(アンナ・フロイト『家庭なき幼児たち』中沢たえこ訳)

トニィは、どの職員に対しても、まったく懐こうとしなかった。

この「氷のような状態」は、トニィが猩紅熱になり、他の子どもたちと引き離されて、ナースのシスター・マリーに付き添われて過ごすようになって、少しずつ崩れ始めた。

トニィは、体温を測るために、シスター・マリーに、膝の上に抱かれて、肩に手を回されることを好んだ。

「この特別な位置が、明らかに彼に母親の腕の中にいた時の思い出を呼び戻したのである」


このケースに見られるように、適切で持続的な愛情や養育を与えられなかった結果、愛着形成や相互的対人関係に支障をきたした状態を、反応性愛着障害とよぶ。


その表れ方は、情緒的なひきこもりという形で表れるとは限らない。

たとえば、同じ保育所のケースとしてアンナが報告したレジーという二歳八ヶ月の少年は、お気に入りだったナース、メアリー・アンが結婚して、職場を去った二週間後、彼のもとを訪れたとき、つぎのような反応を示した。

レジーは彼女を見ようともせず、彼女が話しかけてもあらぬ方を見ていた。

そして彼女が部屋から出て行ったドアをじっと見つめていた。

その後、ベッドに腰を下ろしたレジーはこうつぶやいた。

「僕だけのメアリー・アン! でも、お前なんか好きじゃない」と。


施設の子どもたちの観察から、愛着理論を発展させたイギリスのボウルヴィによると、母親から引き離され、施設に預けられた乳幼児は、最初泣き叫んで「抗議」するが、やがて「絶望」して無反応になり、「ひきこもり」の状態に陥る。

さらに分離が長引くと、母親と再会しても無視や敵意を示し「脱愛着」の状態に至る。


ボウルヴィは、こうした体験が繰り返された子どもでは、自分は愛されていない、見捨てられた、拒否されたという思いを抱くようになると述べている。

そうした愛着の障害は、子供時代にみられる愛着障害に留まらず、生涯にわたって影響を及ぼすことになる。

まさに、ボウルヴィが言うように、養育者との温もりのある持続的な関係が、健全なパーソナリティの発達にとって不可欠なのである。

誰にでもくっつく子・誰にもくっつかない子 二つの愛着障害

愛着障害は大きく二つのタイプに分けられる。

一つは、トニィのように、誰に対しても関係を求めようとしないか、求めてはいるが、同時に強い警戒や緊張を示し、安心して世話をしてくれる人になつけないタイプで、「抑制型」と呼ばれる。


それに対してもう一つのタイプは、誰であれ甘えられる相手には見境なく寄っていくもので、よく知らない人に対しても過度になれなれしい態度をとり、必要な警戒心を欠いているようなタイプで、「脱抑制型」と呼ばれる。

このタイプの子では、表面的に愛着していた相手がいなくなっても、その面影に執着し続けることなく、すぐ別の甘えられる対象を見つけようとする。


どちらのタイプも持続的な愛着が形成されにくい点では、共通しているとも言えるが、表面的な対人関係の様式は、百八十度違うと言える。


こうした子ども時代に身に付いた愛着パターンは、大人になっても色濃く残り、パーソナリティや行動様式に反映される。

抑制型愛着障害は、回避性パーソナリティやシゾイドパーソナリティの傾向へと発展しやすく、脱抑制型愛着障害は、境界性、演技性、依存性といったパーソナリティに結びつきやすいと考えられる。

トニィのその後

ところで、先述のトニィのその後を気遣われる方もいらっしゃるだろう。

その経過は、愛情剥奪を受けた子どもが、どのように心のバランスをとりもどしていくかについて、深い示唆に富むものなので紹介したい。


シスター・マリィとの密度の濃い関わりの中で、回復しかけたトニィだが、次なる試練がやってくる。

面会の日に、他の子の母親はやってくるのに、自分の母親が現れないのを見て落胆してしまう。

母親の代わりに叔母が来てくれたのも余り嬉しそうでなく、トニィは、また以前のように表情のない状態に戻ってしまう。

実は、母親の病状は重く、それから間もなく亡くなってしまうのである。


トニィのシスター・マリィに対する執着は益々深まっていく。

彼はシスター・マリィを絶えず独占しようとした。

彼女が、他の子どもの世話をすることさえ嫌がった。

他の子どもが彼女と手をつなごうとすると、「ぼくの手だよ!」と言って抗議した。

その一方で、トニィのマリィへの態度は、しがみつきとともに怒りや拒否という形をとることもあった。

わざと浴槽に玩具やぬいぐるを投げ込み、それをマリィのせいにしたり、寝つかせようとすると、マリィのことが嫌いだと言い、部屋から出て行くように命じる。

だが、本当にマリィが出て行ってしまうと泣き出すのだった。


このように求めていながら、素直に求めることができず、怒りをぶつけたり、振り回したりするさまは、ずっと年齢が上がって、境界性パーソナリティ障害の若者が素直に相手を信頼できずに、難題を吹きかけて振り回す「試し」の状況に、とても似ている。

そうした若者を相手にした場合と同様、マリィもトニィの気まぐれな感情の暴発に付き合わされて、へとへとに疲れてしまったようだ。

マリィ自身、こうした関わりが、彼のためになっているか、疑うようになっていた。


というのも、マリィが関わる以前のトニィは、まったく反応の乏しい子ではあったが、ある意味で世話のかからない、扱いやすい子どもだったのに、マリィが熱心にかかわるようになって、ちっとも言うことを聞かず、騒ぎばかり起こすようになったと、他の職員から見られていたからである。


パーソナリティに問題を抱えた人の援助をする場合も、まさにこれと同じことが起きる。

援助していくうちに、わがままで要求がましくなり、扱いづらくなるのである。

表面しか見ていない人は、そんな様子を見て、すっかり悪化してしまったと受け取ることも多い。

ただの甘やかしだと非難されることもある。その時期が乗り切れずに、支える方も潰れてしまうことも少なくない。


 だが、シスター・マリィはアンナらの励ましに支えられて、この試練を乗り越える。

「彼女はトニィの激しい爆発に、確かな優しさと愛情で応じた。その結果、彼の反応は驚くほど短い期間のうちに変化した。」

トニィとマリィとの間で、恒常的な信頼関係が築かれていったのである。

「彼は家の中で彼女から離れている時でも、彼女の存在を今では信じられるようになった。

彼女が病室で忙しい時は、保育室で遊んでいた。彼か彼女がどこにいるかがわかり、いつでも走っていって、彼女を捜すことが自由にできればそれでよかった」


 目の前にいない存在を信じることができないという基本的安心感の欠如は、まさに境界性パーソナリティ障害の人を苦しめる特徴でもあることを思うと、トニィの変化はそれを取り戻すのには、何が必要かを示していると言える。

さらに、トニィは成長していく。

シスター・マリィが二、三日、休暇でロンドンを離れるときも、荷造りを手伝って、彼女の楽しみを自分のことにように分かち合い、マリィが出発に遅れないようにとの配慮さえ示したのである。

愛している者への同一化と共感が、自分の利己的な満足にさえ優るようになったのである。


その後トニーは父親を求めるようになる。

軍服姿の兵隊を見かけるたびに、駆け寄って顔を確かめ、父親ではないと知ると泣き出すのだった。

だが、トニィが首を長くして再会を待ちわびた父親が姿を見せたとき、父親は若い女と一緒だった。

それでも、トニィは父親に甘え、「ぼくにはママなんかいないよ。

まず、パパだけがいて、それからマリィなの」と語るのだった。

父親が帰った後も、息子に対しては次第に関心が疎くなっていく父親のことを、ささいな点まで理想化したのである。


こうしたケースを見ると、幼い子どもにとって、親がどれほど大切なものかを改めて考えさせる。

だが、肝心な親の方は、そのことを忘れてしまうことも少なくないのである。


トニィのようなケースは、大昔の物語では決してない。

この豊かな現代日本にも、こうした子供たちが溢れようとしている。


愛着障害は、虐待やネグレクトにともなってみられる場合や親や大人の都合・事情で、養育者が次々変わっているケースにともなうものが典型的である。

懐かない子どもに対して、親は余計否定的に反応し、ますますこじらせていることが多い。

N子のケースのように、愛着形成のもっとも重要な時期に、母親との関係が築かれず、その後引き取ったものの、うまく懐いてくれないので虐待するという例もよく出会うものである。


絶対的な愛情不足があるため、成長不良や栄養不良、虚弱、夜尿をともないやすく、愛情や関心を得る代償行為として、虚言、悪戯、盗みなども見られやすい。

母親から離れられない子 分離不安障害

不安の根源 母子分離という試練

保育や幼児教育に携わる人にとって、四月はなかなか憂鬱で大変な時期だと聞く。

初めて保育所に預けられた子どもたちが、身も世もあらぬように泣き叫び、それが連日繰り返されるのである。

泣き叫ぶわが子をおいて、後ろ髪ひかれる思いで立ち去る親たちにもつらい日々が続く。

それでも、早い子は数日もすると、余り泣かなくなるという。

だが、子どもの中には、一ヶ月も経っているのに、まだ泣いている子もいるという。

程度の差はあれ、幼い子どもは母親から離れることに不安を感じるものである。

だが、余りにも度が強すぎると、社会生活へと乗り出していくことに支障を生じる。

子どもによっては、ちょっと母親と引き離されるだけでも、パニックを起こしたり、うつ状態に陥ったり、身体的な症状を引き起こすこともある。

愛着している人物から引き離されることに対して、強い不安を抱き、さまざまな症状や支障を生じる状態を「分離不安障害」という。

どこに行くのにも、親と一緒でないと不安で、親に四六時中くっついていようとする。

一緒に眠りたがることも多い。

ちょっとでも親が留守をしたり、帰りが遅かったりすると、不安になるだけでなく、不機嫌やイライラがみられることもある。

分離不安障害では、ただ物理的、現実的に引き離されることだけでなく、愛している存在が死んでしまうかもしれない、どこかへ行ってしまうかもしれない、いなくなってしまうかもしれないという不安に満ちた想像を抱き、それに囚われている。

眠ることや暗がりを怖がり、愛着している人物がいなくなる悪夢にうなされることもよくみられる。

 多くのケースでは、不安を高めるような出来事に続いて、強い分離不安が表面化している。

身内やペットの死、親の離婚や別居、転居や転校、家族や本人の病気などがよくみられるものである。

分離不安障害は、幼児期から学童期の初め頃に多いが、つぎのケースのように、比較的高い年齢の子にもみられる。

もっと遅れて、青年期に始まる場合もある。

不登校の原因になっていることもある。

【ケース】 母親の相談相手

中学一年のJ也が、体調の不良を訴えて、よく学校を休むようになった。

それまで成績もよかったが、このところ勉強にも意欲をなくし、宿題にさえ手がつかないようだ。

母親が外出して、少しでも帰りが遅いと、イライラした声で携帯に電話がかかってくる。

母親が慌てて帰ると、泣き顔になって部屋の中をうろうろ歩き回っていたりする。母親と同じ部屋で寝たがる。食欲もない。

どこか悪いのではないかと医療機関を受診したのだ。

一家は母親一人子一人の家庭で、父親とは二年前に離婚した。だが、その後も少年は元気に母親を支えてくれていたという。

何か思い当たることはないかと聞かれて、母親は、もしかしたらと、二ヶ月ほど前にあったことを話した。

それは、母親がガン検診にひっかかって、もしかしたらガンかもしれないと息子に打ち明けたことであった。

そのとき、自分も狼狽していて、話ながら涙ぐんでしまったという。

だが、J也はそのときも、黙って聞いていただけだった。それに、精密検査の結果は、ガンではなかったのだという。

 母親の口ぶりでは、悩み事があると、母親はこれまでも息子を相談相手にして、何でも話していたようだ。

J也本人に聞いてみると、母親がガンかもしれないと泣きながら話すのを聞いて、ショックを受けたことを認めた。

それからすごく不安になって、勉強をしていても集中できない。

いつか母親が死んでしまうと思うと、不安と悲しみで、何をする気力もなくなる。

検査で違っていたとわかっても、不安が消えない。いつかはそういう日が来ると思うと、どうしたらいいのかわからなくなると語った。

だが、J也が抱く強い分離不安には、伏線があったことが、その後わかってくる。

実は、母親は離婚する前後にひどく不安定な時期があって、自殺したいということを、何度かJ也の前で話していたのだ。

「もう死にたい」と泣き叫んでいる母親にすがって、J也も一緒になって泣いたこともあったという。

母親は少し幼い性格で、自分の気持ちが一杯になると、相手が子どもであれ自分の苦しさをぶちまけてしまっていたようだ。

好むと好まざるとにかかわらず、J也も母親の嘆きと不安の渦に巻き込まれていたのだ。

母親がガンかもしれないという心配が、最後の決定的な一押しとなって、激しい分離不安を表面化させたようだった。

その後、J也の不安の強い状態はしばらく続き、同じ部屋で寝たがり、できるだけ一緒に行動しようとした。

母親はJ也への接し方を変え、うっとうしがらずに安心させるように努めた結果、休むことも減り、次第に明るさを取り戻した。

母子の密着度が高い今日、分離不安を青年期になっても引きずっているケースは少なくない。

ことに親自身不安が強い性格の場合、子どもはその不安のはけ口とされ、このケースのように、身代わりに不安を背負わされている場合もある。友達感覚での親子関係の陥りやすいワナである。

分離不安障害という病名はつかなくても、何をするにも母親の付き添いや助言、励ましが必要な子どもは多い。

大きくなっても分離不安が持続すると、依存性パーソナリティ障害、回避性パーソナリティ障害に移行していくと考えられる。

【データ】

児童・青年における有病率は約四%で、よくみられるものである。

パニック障害の母親をもつ子どもに多いとの報告もある。

【対応と治療のポイント】

安心感が回復すると、自然に分離不安も和らぎ、行動範囲も広がり、パニックや悪夢も消えていく。

急ぎすぎないことが第一で、症状に目を向けすぎず、本人の気持ちに目を向けることが大切である。

母親自身が不安定になったり、不安をかかえていることが多く、その場合、母親自身が元気になることが事態の改善につながる。

十分甘えさせて、いくらでも一緒にいていいよという安心の保障から始まって、いたいときには、いつでも一緒にいられるよ、さらには、そばにいなくても、いつもその子のことを考えているから大丈夫だよという気持ちのメッセージを送り続けることである。

あるケースでは、これをお母さんだと思って持って行きなさいと、毎朝、母親が花を一輪子どもにもたせた。

学校を休みがちになっていた子どもは、その花をお守りのように握りしめて、学校に通えるようになった。

あるとき、その花がなくなって、子どもが血相を変えて走り出したことがあった。

幸いは、花は靴箱の中にあった。

すっかり萎れていた花を、その子は抱きしめるようにすると、安心した笑顔を浮かべたのである。

症状が重い場合には、薬物療法や行動療法も行われる。

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この記事を書いた人

香川県出身。東京大学哲学科中退。京都大学医学部卒業。2013年岡田クリニック開院。山形大学客員教授として、研究者や教員の社会的スキルの向上やメンタルヘルスにも取り組む。

著書に、『アスペルガー症候群』『ストレスと適応障害』『境界性パーソナリティ障害』(幻冬舎新書)『パーソナリティ障害』『働く人のための精神医学』(PHP研究所)『愛着障害』(光文社新書)『母という病』(ポプラ社)など多数。

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